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陸上自衛隊の中型汎用ヘリとしては、H-19C、UH-1Bに続く三代目(ヒューイヘリとしては二代目)に当たる機体が、UH-1Hである。B型の運用実績を基によりパワフルで使い易い機体に改良されている。B型のエンジン出力は1000HPに届かない程度だったが、H型は1400HPまで出力を上げた強いエンジンを採用、またキャビンの部分を2m程長くして収容人数も増やせるようにいるので、B型より全長も長くなっている。米陸軍はこのタイプを3500機も造って1965年以降のベトナム戦に大量投入している。陸自での多用途ヘリの勢力もH-19Cが31機、二代目UH-1Bが90機に対し、UH-1Hは133機と、機種更新に従って大幅に増勢されている。1972年(昭和47年)から始まった第4次防衛力整備計画(4次防)で陸自は154機のヘリ購入を計画したのでUH-1Hは、その目玉でもあったはずだ。因みに1973年からH型は納入が開始され、2016年に全機退役(陸自広報センター資料では2018年退役と表示)となっているそうだ。
 陸自のUH-1Hが活躍して注目されたのが、1985年(昭和60年)8月12日に起きた日航機(JAL123)の墜落事故である。着陸ポイントが無く、しかも空気が薄い山岳地帯での救助活動、遺体の収容などは、主に東部方面航空隊のUH-1Hが使われた。多い時は方面隊の半数の機体が毎日現場に飛んだと言われ、作業は9月半ばまで続いたとされる。ベトナム戦でもそうであったが、ジャングルや森林地帯へのヘリの輸送には、必ず着地できるポイント(LZ)が必要となる。ホイストやロープでの積み下ろしは、あくまで全くLZ(landing Zoom)が確保できない場合であるから、一般的にはLZが確保出来ない場合、作戦区域から除外される。其の為 米軍の場合、どうしても作戦上LZが必要な場合、ジャングルに大型の爆薬を空中投下して木々をなぎ倒してLZを確保していた。また、斜面がきつい場所もLZは取りにくいので、こうした場合バートルのような大型ヘリより中型の汎用ヘリの方が、小さな面積のLZさえ確保出来れば作戦が進められる為、便利であった。日本の場合、山岳地帯が国土の80%であるから、LZの確保を考えれば中型汎用ヘリは、それなりの数が必要のはずだ。 
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↑1978年 松野氏が明野で撮影された3色迷彩のUH-1H/41634。恐らくこの機体が3色迷彩を施された一番初期のものであると記憶しているが、この1機以外暫くの間迷彩塗装がされた機体は現れておらず、将来の迷彩塗装採用を前提に試行的に塗られたものであろうが、種々の迷彩を比較した本格的な検討は1980年以降に行われているようである。
↑ 同じく北宇都宮で見かけた霞ヶ浦分校所属のUH-1H/41641。B型と比較すると尾部ローターの取り付け位置が左右逆になっている。B型は左側H型は、右側である。
↑ 同じく北宇都宮に飛来した東部方面ヘリコプター隊所属のUH-1H/41652。1978年時点で52号機は恐らくバリバリに新品だったはずだ。何故だかこの時期のUH-1Hの発注数は少なく、1977年度予算で3機、1978年度予算ではたった2機であった。恐らく第4次防衛力整備計画が1976年に終了し、次の5次防がなくなって53中業(中期業務計画1980~1984)への移行期間にあたり、計画が二転三転した時期のせいかもしれない。
↑ 1978年 北宇都宮分屯地での飛行展示でホイストを使った救助活動を見せるUH-1H/41626。B型と違いホイスト装置は機内に収納されている。
↑ 1977年に松野氏が明野で撮影されたUH-1H/41645。陸上自衛隊が当時使っていた三菱製のJEEP J3かJ-57Aと思われる車体を吊り上げている。重さは約1.2トンあり、UH-1Hはこれを軽々吊り上げる能力を示している。
↑ 1977年10月明野駐屯地で松野氏が撮影されたUH-1H/41634
↑ B型のページ1と同じ日に撮影した昔の陸自立川駐屯地の様子。1973年から陸自に配備が始まったH型が既に多く活躍していた。東部方面隊は恐らく北部方面と並んで優先的に新鋭機が配備されていたはずなので、1976年時点で30数機が配備済のUH-1Hの内、新しい番号も見受けられる。
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